私とインパール(随筆)

私とインパール

インパール作戦におけるコヒマ攻防戦(インド・ナガランド州)で擱座したまま現在も野外展示されている、英軍のM3リー戦車と私(2017年)


いまや「失敗」「無茶苦茶な計画」の代名詞になっている感のある
「インパール作戦(1944年)」。某都知事がなぜか帯に推薦文を書いている名著『失敗の本質』でも、日本陸軍の失敗の典型例として紹介されている。現地最高責任者の牟田口廉也中将の名前は、もはや「ブラック上司」の代名詞としてその人定の詳細は兎も角、「ムタグチ」の名前ぐらいは知っている人が多かろう。しかし実際にかのインパールの地に行ったことのある吾人は、私の周囲にひとりもいない。だから私は2017年インパールに行った。

日本からインパールへは当然のこと直行便は無い。タイのバンコクとインド東部のコルカタ(旧カルカッタ)を経由して片道最低2日かかる。航空機全盛の現在でも、インパールが如何にインド最東部の、最も開発から取り残された秘境であることは、この空路の不便さからも推して分かろう。

インパール作戦は、太平洋戦線で米軍が蛙跳び作戦(ガダルカナル、マキン、タラワの反抗を契機に島伝いに北上すること)で日本軍を圧倒している1944年、戦局の打開を図るために大本営が正式に裁可した大作戦である。当時、日本陸・海軍は南方作戦の大成功に酔いしれ、真珠湾と時を同じくして英領コタバルに上陸。そこから一挙に寡兵で以てシンガポールを落とすと、中立であったタイ王国を事実上傀儡としてビルマのラングーンにまで西進して英領ビルマ全体をその掌中に収めた。

インパール作戦は、このように太平洋での戦局が悪化する中、地理的にその反対にある、辛うじてイギリス軍と均衡を保っているビルマの日本軍(第15軍―隷下に3個師団)を以て東インドの英軍の拠点、インパールとその補給基地コヒマ(高原都市)を占領するという希有壮大な計画であったが、結論から言えばご存じの通り補給を度外視した無茶苦茶な作戦計画により、日本軍は英領インド―ビルマの国境地帯の道なき密林を行軍し、敵地に到達する前からマラリアと赤痢で疲弊しきっていた。

英軍司令官スリム中将は、日本軍の作戦内容を把握し、日本軍の補給路が延びきったところを叩いた。結果、インパール作戦は日本側の一方的な敗北と成り、日本軍は組織として崩壊寸前にまで追いやられ、あべこべに追撃してきた英軍に抗せぬまま、ビルマ戦線全域が崩壊することによって終戦を迎える。やらなくとも良い越境攻撃と、牟田口を筆頭とした15軍、ビルマ方面軍、南方軍、大本営(佐藤幸徳いわく”バカの四乗”)の現場への無理解と無能が招いた世紀の愚策であった。

現地インパールは、かの悲劇から70余年が経っても、当時の地形はほぼ保全されている。未舗装の一本道、見渡す限りの湖沼(ロクタク湖)、うっそうと密林が生い茂るアラカンの山々は、あの悲劇の1944年から全く変わらないで現在もある。言い尽くせないインパールの現地見聞は、いまだ本国に帰ることの出来ない無数の英霊の遺骨が、まるで「一緒に連れ帰ってくれ」と言わんばかりの後ろ髪を引かれる思いで帰国した私の拙文によって、小学館の月刊誌SAPIO2017年8月号に写真付きで掲載させて頂いた。以下、記録の為にも自身の原稿を掲載する。些か冗長だが興味のある方はご一読されたい。


インパール―、と聞くと少なくない日本人は先の大戦時に挙行された、あの無謀で凄惨な大作戦を思い描くだろう。1944年3月、悪妙高き第15軍司令官牟田口廉也によって起草されたインパール作戦は、補給無き無謀な作戦計画の元に、都合四ヵ月以上に亘って行われた。「インパール」は無謀、失敗、無責任の代名詞となって、現在も現代日本人の心の中に、その名前だけは知られている。

しかしこれだけ有名なインド東部の都市・インパール。他方、私の周囲にも実際にかの地に行ったことのある人間は皆無である。航空機全盛の今日にあっても、インド東部の辺境へ行くのは、並大抵の労苦ではない。一週間の休暇を奇貨として、私はかの地インパールへ向かうことにした。総参加兵力十万のうち、三万とも四万ともいわれる無辜の将兵が倒れたインパールとは、いったいどのような地か。この目で確かめなければ気が済まない。

奇しくも、同作戦が大本営によって中止されたのが一九四四年七月一日。バンコクとインド東部のコルカタを経由すること、片道丸二日をかけてインパールに至ったのは、ちょうどその作戦中止から七十三年目に当たる月初であった。

中国と並ぶ十三億の人口を抱える成長著しいインドの最も東寄りにあり、ビルマ(現ミャンマー)と国境を接するのがインパールである。行政区分としてはマニプル州に当たり、インパールはその州都だ。空港で屈託のない笑顔にて出迎えてくれたのは、現地の戦史ガイド・アランバム氏(四十六歳)。ア氏は生まれも育ちも地元インパール。パンジャブ大学でMBAを取得したインテリである。実父がインド独立初期の陸軍軍人だった事に触発され、以後インパール戦史啓蒙の陣頭指揮に当たっている。瀟洒な自宅に私設インパール戦争博物館を設営、土の中から両軍の遺棄物資などを発掘、展示されている。ア氏は連合国(英)・日本側双方ともに交流を持つ在野の戦史研究家として、戦後、同地を慰霊に訪れる元日本兵やその遺族等をコーディネートした経験もある。その活躍は朝日新聞紙面にも紹介されたほどだ。今回の旅は、このアランバム氏をガイドに、氏のトヨタ製四駆に同乗して山野を行く工程となる。

ここで、インパール作戦の簡単な経緯を整理しておこう。1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃を嚆矢として始まった日米戦争は、同時に陸軍がマレー半島コタバルに奇襲上陸を行い、対米持久戦体制確立の元に、南方の資源地帯を掌握する所謂「南方作戦」が始動された。大本営は東アジアにおけるイギリス最大の拠点、シンガポール攻略を最重要視し、これを占領すると、中立国であったタイ王国と軍事同盟を締結。余勢をかってタイから敗走するイギリス軍をビルマ以西まで放逐することに成功した。この時、イギリスは英本土をナチスドイツに激しく空爆され、大西洋ではドイツ潜水艦Uボートの通商破壊に苦しめられて断末魔一歩手前の状況であった。シンガポール、ビルマから放逐されたイギリス軍は、英領インド東部の拠点、インパールに逃げ込んだ。

インパールは、ビルマ側から見て二つの山脈(アラカン山系、ビジュー山系)と一つの大河(チンドウィン川)によって遮蔽されている。日本軍の猛攻に疲弊したイギリス軍はひとまずインパールに立て籠もったが、一方で日本軍も、ビルマまで駒を進めたは良いがそれ以上の追撃は前述した三つの天然の要害が邪魔をして不可能であった。日英両軍の膠着状態は1944年まで続く。大本営は元来、インド独立運動家、チャンドラ・ボースを擁してインド東部に攻め込み、イギリスの屈服を図るという構想を抱いていた。

この構想は、むしろ太平洋方面での日本の敗色が濃厚となった1943年末以降、活発になっていく。ガダルカナル撤退、ラバウル航空戦、マキン・タラワ両島玉砕など、太平洋での米軍の猛攻が日増しに強まる中、大本営が希望を見出したのが静謐に思えたビルマ・インド方面での積極攻勢であった。これがインパール作戦に繋がる。作戦は、44年3月に開始され、同年4月29日の天長節を一つの皮切りに、英領東インドの拠点インパールと、その補給拠点コヒマを占領し、以って在インド人民の反英感情を刺激し、講和に有利な条件現出させることにあった。作戦はビルマ北部の保養地・メイミョウに拠点を置く牟田口廉也を総司令官とし、手持ちの三個師団約十万人を以って、二手に分かれてインパールとコヒマを攻略する手はずである。

インパール攻略を目指すのは、第十五師団(通称”祭”山本正文中将)、第三十三師団(通称”弓”柳田元三中将)の二個師団。北側のコヒマを目指すのは、第三十一師団(通称”烈”佐藤幸徳中将)の一個師団である。ところが行軍は予想をはるかに超えた厳しさであった。野砲、車両等は分解して道なき山中を担がねばならず、荷馬として現地挑発した水牛は、第一の難所・チンドウィン川を渡河する際に半数が溺れ死んだという。物資の運搬に使用した水牛を、現地に着いたら食料にするという奇案を牟田口は「ジンギスカン作戦」と自画自賛したが、初手からその構想は頓挫した。加えてこの時期、米軍の支援を受けて増強された英印軍はその制空権を掌中に収め、空中給油で友軍に万全の補給体制を敷いていた。一方、日本軍は携行食料と現地調達鹿しか補給の当てはなく、しかも行軍は空襲のない夜間に限られた。

ア氏のガイドの元、インパール市郊外で戦後に建立された慰霊碑で献花すると、翌日もう私はコヒマの地に向かっていた。このコヒマこそ、私が今回の旅で最も重視する訪問地の一つである。前述したとおり、コヒマはインパールに物資を供給する補給拠点であり、その攻略には佐藤幸徳中将が抜擢された。電子が世界を駆け巡るこの21世紀の現在にあっても、インパールからコヒマに続く道は舗装道路一つなく、たった一本の片面通行路があるだけである。

ア氏曰く「当時の日英両軍もこの道を使った」。両側に鬱蒼とした密林が繁る手つかずの山野が、まるで七十三年前と同じ光景のように広がっている。折しも現地は雨季。土砂崩れでインド国産タタ製のトラックが二度、悪路に車輪を取られて派手に横転しているのを見た。現地住民の落ち着きぶりを見ると、このような光景は日常茶飯事であろう。コヒマは、標高二千メートルを超える高山都市で、まるでマチュピチュの如き雲の上の斜面に不良住宅やビルが犇めいている。インド全体の経済成長はまだこの辺境にはわずかにしか及んでいないらしく、人々の暮らしは客観的にみて余りにも貧しい。

それでも当時、二つの山岳と一つの大河を超えてきた佐藤幸徳中将率いる第三十一師団はこのコヒマに肉薄し、英軍との激戦の末、一時期は半ば同地の占領寸前まで行った。特に、同師団兵団長宮崎繫三郎少将(後中将)の働きはさしもの英軍を苦戦させた。だが、日本軍の進撃もここまであった。まず制空権がない。そして僅かな携行食料は全て食べつくした。目標としていた天長節までのインパール・コヒマ両都市占領は、スリム中将率いる英印軍の巧みな反撃に逢って一向に進まない。五月を過ぎると雨季である。ただでさえ貧弱な道路は冠水し進むも引くも容易ではない。それに伴い衛生状況は著しく悪化。マラリアや赤痢に陥る日本兵が続出した。戦後の述懐によると、牟田口が作戦の失敗を悟ったのは四月末であったという。にも拘らず、牟田口は安全地帯のメイミョウから、前線に督戦電報を送り続けた。このままでは二万の部下が死ぬ。

佐藤幸徳中将は、5月末独断にてコヒマを放棄し、後方に撤退する決断を下した。天皇直々に任命される陸軍師団長が、上官の命に背いて独断撤退を下したのは、近代日本陸軍始まって以来の大事件である。軍法会議で死刑を覚悟した佐藤中将だが、しかし「発狂」として処理されてお咎めなしとなった。無論、作戦全般の責任者たる牟田口にもお咎めは無かった。ビルマまで後退した佐藤中将は、「牟田口を斬り殺す」との剣幕で第15軍司令部に乗り込んだという(牟田口は不在)。こうして無為に時間が過ぎる中、インパール作戦の失敗はだれの目にも明らかとなり、7月1日大本営は天皇に作戦中止を奏上。ここに戦史史上最も無謀とされるインパール作戦は終わった。しかし東インドの密林では、東京での決定如何に関わらず、敗残兵がひたすら元来た道を病身で逃げていき、そして力尽きるのだった。所謂「白骨街道」である。

現在、ア氏や地元州政府の協力の元、インパールやコヒマには第二次大戦にまつわる記念館や戦没者墓地が運営されている。コヒマには、日本軍の攻撃で擱座したまま七三年前の姿そのままで放置されている英中戦車「M3リー・グラント」が野外展示されている。ア氏のガイドの元、コヒマ近郊にある村に案内された。コヒマはナガ族というモンゴロイド系山岳部族が多数居住する。村人たちはインド人と言うよりは中国人に近い風貌である。納屋のような小屋の前まで来て「はッ」とさせられた。佐藤幸徳中将がコヒマ攻略の際、滞在していた十坪に満たない木造家屋が七十三年前の姿でそこにあった。滅茶苦茶な命令にも関わらず作戦に従い、難渋の末、部下の命を救う英断をされた稀有の名将、佐藤中将はこの粗末な小屋で寝起きしていたのだ。現場を無視した精神主義的体育会系の愚者の滅茶苦茶な命令に、命を賭して抗命した中将の姿は、現代日本の様々な企業組織の暗部にも通じるのではないか。

ア氏は言う。「東インドに侵攻してきた日本軍に、私たちは悪意など持っていない。私たちは何百年もイギリスに虐げられてきた。日本軍は同じアジア民俗の解放軍と思った。だから、敗走していく日本兵や、病で動けなくなった日本兵を、英軍の目を盗んで自宅に匿って看病した村人が沢山いる」。帰路、インパール市郊外のチャンドラボース記念館に寄った。ボースはコルカタ出身だが、インパールに侵攻した日本軍の先鞭となってインド国民軍を形成した。ボースは日本の力を使ってインド独立を企図し、ナチスドイツにも接近した。しかし、その望みは日本の敗戦とともに潰え、終戦直後台湾で航空機事故死した。日独の対英戦略の狭間で良いように利用されただけという評価もあるボースは、ここインドではガンジー、ネルーと並ぶ英雄である。

インパール作戦の失敗によって、辛うじて拮抗していたビルマ戦線は崩壊した。日本軍を追撃してビルマに侵入した英軍は、ビルマの最大拠点ラングーンに迫った。インド・ビルマ戦線全域で死亡した無辜の日本軍将兵は十五万とも十八万ともいわれる。まだその多くの遺骨が、このインド東部の鬱蒼とした青い山野に眠っている。整然と整備された連合軍戦没者墓地に埋葬された英印兵とは対照的に、いまだ土の中に眠る日本兵は私たちに、二度とこのような無謀な作戦が出来されることのないよう、怨念の如き声なき声を発しているかのように思えた。

高い経済成長や、IT、映画産業ばかりが耳目を集めるインドにあって、インパールとコヒマではただの一人の日本人にも遭遇しない。インパールの悲劇は静かに、私たちの記憶から風化しつつある。しかし、土の中にいる亡者の声は、あの戦争がまだ終わっていないことを繰り返し繰り返し告げているのである。(小学館『SAPIO』2017年8月号寄稿)