私と大阪(随筆)

私と大阪

中世期に「生みの親」とは別に「乳母」があったのと同様、私には生まれ故郷と育ちの故郷の二つが存在する。前者は北海道札幌市である。後者は大阪である。私は管理教育と両親への反発から、兎に角県外への進学に専心していた。中央から津軽海峡を隔てて地理的に遮蔽されている北海道の高校生という身分にとっては、東京も関西も九州も等価なのである。

よく、「なぜ京都の大学を選んだのか」と聞かれることが多いが、答えは「県外であればどこでも良かったから」である(―ちなみに、高校2年までの私の第一志望校は、たった2教科で選抜が可能な下関市立大学であった。第二志望は一丁前に日本大学芸術学部映画学科であった)。だから割と、北海道出身者は関西や九州・沖縄の大学に進学することに抵抗がないのである。どの道、飛行機に乗るしか移動手段が無いのだから東京も福岡も同じようなものなのである(―実際はかなり違っているが)。

晴れて私が大学生になったのは、21世紀最初の年であった。この年、日本では「シンキロウ」と嘲笑された森喜朗内閣から電撃的に登場した小泉純一郎内閣に交代した。そしてアメリカでは前年度、アル・ゴアとフロリダの選挙人を巡って世紀の裁判沙汰を経て大統領になったブッシュ・ジュニアの治世になり、9月には例の「9.11」が起こる。そんな時代であった。

しかしながら花の大学生を京都で送ることになった私にとって、京都の街はどことなく憂鬱であった。生来の根暗気質とコミュ障が災いして全く友人が出来ず、そして友人が出来ないから自由の大学空間で合理的に単位を取る「人的資源」を持つことが出来ず、ずるずると大学を留年する遅延戦術に陥ってしまったのである。この間、私は一念発起、高校時代の夢である映画監督への道を進むために、大阪の堂島にあるビジュアルアーツ大阪(旧大阪写真学校、河瀬直美監督を輩出)に入学するが鳴かず飛ばずで1年が過ぎ、やがてその居を京都から大阪に移すことになった。

大阪は私にとって刺激の宝庫であった。「キタ」と「ミナミ」の彩色の違い。淀川を挟んで「北摂」と「河内(―厳密には北河内と南河内でまた違っている)」、或いは「泉州(泉南)」の土地の違い。ほんの僅か離れただけで土地の様相ががらりと変わる。住之江には競艇場とゴミ処理施設がある。大正区にはリトル沖縄がある。芦原橋には人権センターがある。そして天王寺から阿倍野にかけてはビッグカメラと動物園と通称「あいりん」のもつ煮込みと雑踏とスーパー玉出がある。かと思えば、梅田は東京を凌駕するかと思うほどの東アジア有数の大都会だ。阪急電車で西進すれば、観たことの無い戦前からの大邸宅が広がっている(兵庫・芦屋、西宮)。一年の半分が雪で閉ざされ、亜寒帯特有の色彩起伏の少ない広大な住宅都市で育った私には、大阪の色彩は極彩色に映った。そしてすぐにこの街が大好きになった。

現在でも、私は何用がなくとも一年に一回以上は必ず上方を訪れる。橋下府政・市政を経て、大阪はどんどん綺麗な街に変わっていく。市内「キタ」と「ミナミ」に余り差がなくなりつつある。あべのハルカスは日本一の超高層ビルになった。大阪の雑踏はどんどん一掃される傾向にある。これは良いことなのか悪いことなのか、正直良く分からない。しかし私の大阪に対する愛は微塵も変わらない。結局私は、18歳から8年間に亘って関西に住んだ。青春の最も重要でかつ濃密な時代を、東京では無く関西で過ごした経験はいまでも本当に大正解だったと思う。そして8年間の間に鍛えられた私の関西弁は、若干京都の高齢者が使う京都弁と河内弁が混ざったものとなっているのであるが、恐らくネイティブと間違えられるぐらい、そこそこには上手いはずである。